現在は魚津水産さんの事務所になっています。
原則として内部は公開していないそうです。
大正三年(1914)に始まった第一次世界大戦は、日本に好景気をもたらしたが、その反面、物価は上昇し、庶民の生活は困窮した。特に 米商人の買い占めや売り惜しみなしみなどにより 米価は大戦前の四倍になっていた。
このような状況下、大正七年(1918)7月23日、北海道への米の輸送船『伊吹丸』魚津町に寄港した。おりからの米価高等に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しをおこなっていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しをやめるよう要求し、このため米の搬出は中止された。
この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など沿岸部で次々と米騒動がおこった。さらにこの騒動は全国に広がり、当時の内閣が総辞職に追い込まれた。その後、日本で最初の本格的な政党内閣の誕生につながった。
魚津市教育委員会
建設年代 大正三年(1914年)
構造形式 土蔵造り 木造瓦葺
規 模 間口40メートル
奥行き11メートル(米倉本体8,2メートル)
面積445平方メートル
(米倉本体313平方メートル)
特 徴 外観は、土蔵と解放的な下屋(1段下がった屋根) からなる。室内は、七室に仕切られ、その出入口は、漆喰の鳥居枠 に養生石を貼り、壁面には荷物の運搬で傷めないよう板の保護がある。
内部は、半間(約0,9メートル)感覚に主要な柱が入る強固な構造になっている。また、壁には凝灰岩切石が積み上げられている。さらには通気性を考慮し、板を内外交互に張る大和張りが採用されている。
屋根には棟通りに地棟を入れずに、一間幅(約1,8メートル)
の天秤梁(地棟を受ける梁)両端に地棟を二列に通した珍しい構造をしている。また、瓦の下には厚さ4センチのモルタルがある。
松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。築城年代は定かではありませんが。室町時代には松倉城の支城(出城)として機能していました。
天正十年(1582)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大きた織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らの攻撃を受け「本能寺の変」の翌日である六月三日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、前田氏の支配下となりましたが、江戸時代の初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代の中頃の「魚津町総絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。本丸部分は現在、大町小学校となっています。 平成22年9月 魚津市教育委員会
天正の初年(1573年)上杉謙信が越後の精兵を引きつれて越中へ侵入し魚津場外にたむろした時の歌であり、時は初秋、過雁一声鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる句詩。
武士(もものふ)のよろいの袖をかたしきて
枕に近きはつかりの声 魚津市教育委員会
下田温泉 鱒鮨
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